人生が希薄化しているのを感じる

多感な時期に比べ何事も自分の人生におけるウエイトが小さくなっている。誰かと会うことも、たとえばそれがはじめましてでも、昔ほどときめかなくなってきた。前はこれは人生の一大事、自分の中のなにかが変わるかもしれない!期待!わくわくみたいな気持ちでいたのだけど。最近はそういったことはめったにおこるものではないし、そんな簡単におこってはしょうがないものでもあるし、大抵のことは時間が何事もなくすぎて何事もなく次の日がくるものだ、と頭でわかるというか実感として、体得してしまった、というか。
ひとえに経験してきてしまったからなのだと思う。僕はいまのぼくが経験できそうなことはたいてい経験してしまったのだ。悲しいかな。そして、去年人生掛けて取り組んでいた体育会で結果を、それも劇的にだせた、という体験も大きいのだと思う。あれほどの努力と時間をかけて犠牲をはらわないと、あれほどの感情を味わうことはできない。あれを超えるためにはあれ以上の努力が必要だって実感としてわかっているから。簡単に手に入るものには、簡単に手に入るだけの価値しかないのだろうと。そう思う。

人生は進んでいって、四月以降新しい幕が上がるのだけど。僕は今のように人生を体感していくのだろうなと思っている。みずみずしい感覚は失われてしまった。青い空に浮かぶ白い雲を見上げてその日一日中感動していたころの僕には戻れない。悲しいかな。

あまりにも多くの人と会ってきた。これほどたくさんの人がいる世界で偶然かもしれないけれど出会った人にはなにかしらの縁を感じるものだけれど、特に大学時代は会ってそれきりという人がたくさんいるということを学んだ。僕自身に興味があるわけではない人や僕の属性、カテゴライズされた人間としての僕に接してくる人もいるということを知った。どうしてあなたは僕の人生に現れたのか。僕の人生に現れて僕の人生やあなたの人生になにか影響があったのか。そう答えられる人と出会いたい。人生はそんな人と付き合っていくほど長くないというよりも、そういった人たちと付き合っていくことで人生の意味合いや他の大事な人たちとの関係性、ほかの大事な人たちと付き合っていくときの僕の考え方心の持ちようが希薄化されてしまうことが、本当に許せない、気でいる。
損得勘定を超えたところに、人生の意味合いがあると本気で信じている一方で、僕の方を見ていない人に対しても最大限の配慮と労力をはらうことは、やっぱりできないと思う、悲しいけど。